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21世紀のサイノツノブログ

サイノツノによる提言

労働を多次元で変革しよう 『働く女子の運命』(文春新書)

 いつもこのブログを見ている方々はお分かりだろうが、私は「女性を応援したい、もっと能力を発揮してほしい」と常々思っている。(そしてそれは私の中の大きなテーマの一つでもある。)

なぜなら、憲法の下では男女は平等と定められているのに、実際はそうじゃないからだ。人間の価値を誰かが決めることはできないし、自分の価値は自分で決めるものだからだ。日本の女性は抑圧されているように見える。もっと自由と尊厳を持って生きていい。

 

「仕事」というのは人生の一部に過ぎないけれども、それでも社会に対して自らの機能を提供する「仕事」は意義のあることである。そして、誰しもみな、社会に対して何らかの機能を提供しているし、できるのだ。

日本の女性は、仕事で十分に力を発揮できているだろうか。

 

女性がもっと思うように仕事で能力を発揮するためには、個人の次元と社会の次元両方に働きかける必要があると思う。個人の次元では、女性自身の自信を高めることが必要だ。(ちなみに、話題になった本だが、『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』はまさに「女性が自信を持つことの重要性」について書いている。一読の価値あり。)

 

社会の次元では、仕事に支障をきたしていると思われる女性の家事を分担することを筆頭に、男性の力が必要だ。男性の協力と理解を得るためには、長時間労働を基本とする日本の働き方を変える必要があると、私は考えている。そして働き方を変えることは、女性のみならず、男性の可能性を広げることにもなるはずだ。

つまり、女性の社会的地位向上と、労働の問題はセットだと考えている。

 

前置きが長くなったが、以上のような思考を経て、私は本書を手に取った次第である。

 

さて、『働く女子の運命』(文春新書、濱口桂一郎著)を紹介しよう。

本書は、「女性と労働」という切り口で書かれている。巻末の経歴を見ると、著者は労働省(当時)出身で、現在も労働研究に携わっておられる方である。いわば労働に関するスペシャリストといえようか。内容は、決して女性のみの話ではなく、著者の言葉を借りれば「日本型雇用の歴史そのものが女性のありようを物語る」ものである。

 

はじめに、男女に関わらず、現在の日本の労働者の状況を確認してみよう。電車に乗っているサラリーパーソンは、明らかに疲れているように見受けられる。その一方で、「社畜」という言葉が流行っている通り、家畜のように働かされていることに気付く人も多くなってきた。

 

女性の活躍状況はどうだろう。内閣府は日本における女性管理職の割合は108か国中96位の11.1%である。(【女性管理職ランキング】日本は中国以下の96位 フィリピンはトップ10入りハフィントンポスト 2015年2月21日付)。男女間の賃金格差も2014年の数字で26.59%(Gender wage gap - OECD)と、OECD加盟国中ワースト3位だ。

 だからこそ内閣府は「社会のあらゆる分野において、2020年までに、指導的地位に女性が占める割合が、少なくとも30%程度になるよう期待する」という目標を掲げて、ポジティブ・アクションを講じているのだが、どうなるだろうか。というか、本当に男女平等にするなら50%だろう、と突っ込みたくもあるが、ぜひとも目標達成したいものだ。

 

それでは、著者の論点から重要だと思われる概念をひきつつ、議論を深めていこう。明治時代の女工の話からスタートし、興味深い話がたくさんでてくるが、今回は割愛する。

 

著者は、労働社会を「メンバーシップ型社会」と「ジョブ型社会」に分類している。

メンバーシップ型社会は簡単に言えば「人基準」で、ジョブ型は「仕事基準」であるということだ。言うまでもなく日本は「メンバーシップ型社会」である、と著者は定義しているわけだが、これは「新卒一括採用」という独特のシステムを見ても明らかである。どんな仕事をするかは、会社に入ってから決まるというのが特徴の社会だ。これに対して「ジョブ型社会」の採用は、まず欠員のある仕事があってそれを補充する、という形で採用が行われるという。

 採用を例にとってジョブ型とメンバーシップ型の違いをみたが、この「人が基準か、仕事が基準か」という違いがもろもろの違いの根源となっている、というのが著者の一番の論点である。また、日本においては、法的にはジョブ型をとっているのにその実態はメンバーシップ型で運営されている、という歪みもある。

 かたやあいまいな人という基準、かたや定義づけされている仕事という基準である。

 

それでは、さらに、給与の決め方の違い、そして男女の労働者の扱いの違いなど、雇用環境の違いをみていこう。

まず、給与の決め方について。

日本では、戦中の賃金統制に端を発する「生活給」という思想が根強かったという。「生活給」というのは、給料を決定するときに、仕事の内容を基準にするのではなく、「妻と子を養えるだけの賃金」を基準とするものであったという。だから、子供に一番お金がかかる時期に給与が上がるような「年功序列」の仕組みがあるわけだ。そして「生活給」には、残業代も含まれていたという。つまり、男性が無制限に働くことを条件に、生活を保障するだけの賃金を支払うということだ。

これに対して、「ジョブ型社会」では、ジョブ自体が明確に規定されているのと同様に賃金が規定されているから、誰がそのポジションにつこうが、つまり女性でも黒人でも高齢でも、同じ給料であるのだ。

 

次に、男女均等化後、女性の立場がどう変わったのかの違い。

「メンバーシップ型」の日本においては、均等法が施行されて女性が本格的に職場に進出するようになっても「生活給」の思想の根本は変わらなかったそう。

 均等法以前の企業における女性の位置づけを確認すると、それは、結婚するまでの期間のみ社会経験のために働く女の子、というものだったそうだ。つまり、企業のシステムに組み込まれてこなかった。逆に、女性をそのように位置づけたからこそ、「終身雇用」と「年功序列」というシステムを守ってこられたわけだ。

 

均等法後もこのシステムと「生活給」の思想を維持したままだそうだ。

その結果、均等法以前に「一般職」と呼ばれていた女性は非正規化された。以前の男性のように無制限に働くことを承諾する女性のみが「総合職」としてそのシステムに組み込まれることとなった。しかし、女性が無制限に働くことは、出産に直面すると難しくなる。だからこそ、近年出産・子育てを支援するような制度を設ける会社が増えたのだが、その制度を利用できても「昇進・昇給にはあまり関係のないキャリアコースに固定され」たりする「マミートラック」というコースに入り込んでしまう。

著者は、「第二次ワークライフバランス」とも言うべき社内の制度をいくら改良しても、「第一次ワークライフバランス」である「物理的な労働時間の規制」なしには意味がない、とみている。

 

「ジョブ型」の社会では、仕事の内容が決まっていて、それを遂行することによって賃金が支払われ、成果を評価する際も仕事の基準に基づいているのは先ほど述べたとおりだ。均等法以前は、女性が特定の職から排除されているという状況だった。

だから、均等法後はそこに女性を入れる施策がとられた。アファーマティブアクションもその一つだ。

 

ジョブ型社会と比べてみると、何が日本女性の仕事での活躍を妨げているかが浮き彫りになる。

どうしたら日本女性は仕事で活躍できるのだろう。法律の次元、雇用契約の次元、個人の次元の3つの次元で解決策を考えてみよう。

 

まず、法律の次元では、著者も主張するように、雇用側に対して規制をかけるべきだ

例えばEUのように、週48時間以上働かせてはならない、と制限をかけるのである(これは残業時間を含んだ上限時間だ)。長時間労働の禁止を法制化する。そうすることによって、どうしても出産・育児に物理的に拘束される女性も、男性と同じ条件で勝負できる。そしてそれは、仕事にバランスの偏りがちな男性にとってもプラスだろう。家庭、地域、趣味といったことに時間をかけられるようになるだろう。言うまでもなく、人生は仕事以外にもたくさんの領域がある。

男性は男性で「一家の大黒柱」というプレッシャーがあって、それで自分の生命時間を家族の生命時間にかえていたわけだから、男性も解放されてしかるべきだろう。

 

話が分散した。

 

つまりは、働く時間が規制されてることになると、「時間」(=どれだけ会社に奉仕できるか)が基準になっている現在の状況よりももっとフェアな条件になり、男性も女性もハッピー!ということだ。

 

でも、それでは給料減るし、日本のGDPも減るのでは?と思うかもしれない。

考えてみよう。まずは、GDPについて。

そもそも、日本では、他国と比べて長時間働いているのに、それにしてはGDPがしょぼくないだろうか。一人当たりのGDPで考えたら、日本人の生産性はあまり高くない。今の日本の状況は、「個人の生産性は低いが、人口のボリュームが比較的大きいので、GDPの合計は比較的高い」という状況。長時間労働とは、つまるところ、生産性が低いから、長く働くことによって生産量を維持し、そして賃金を維持するために行われている習慣であると言えそうである。ならば、生産性を上げればいいだけである。書店にたくさんそういった本が並んでいるように、方法はいくらでもある。

もしGDPが下がったとしても、それはそれでオーケーだろう。というのも、これから日本は人口が減っていくわけだから、GDPも減っていくのは当然だ。人口が減ることが悪いことのように言われることも多いが、それは政府の論理である。人口が減ると政府は税収が減るからだ。

でも、私たちは政府のために生きているわけじゃない。減ったGDPにふさわしい大きさの政府に変えればいいだけの話だ。

 

次に、給料は減るのかということ。

それは、減るかもしれないし、減らないかもしれない。つまり、決まった時間の中における個人の生産性によって決まる。

 でも、もし給料が下がっても大丈夫だ。

給料がたくさん必要になる時というのは、子供がいる世帯ならば、学校の授業料だろう。それならば、政府が補助金を出す、などの代替手段がある。授業料そのものを下げるとか、無料にするという手もあるだろう。なんにせよ、仕事の報酬と直接関係のないお金を賃金に組み込もうとするのをやめて、その都度必要に応じて資金を得られる仕組みを作ればいい。

 

それでは、雇用契約の次元を考えよう。

雇用契約の次元では、「仕事内容」をもっと明確に規定するべきだ。「ジョブ型」社会の評価軸である。規定されることによって、どこまでやればいいかが明確になる。いくら時間をかけるかは関係なく、達成度のみで評価することができるようになる。先ほどの時間制限のところでも書いたが、女性が出産とか育児で物理的に制限があってもフェアに評価される仕組みである。

そして、それは個人の属性が関係なくなるわけだから、女性だけでなく、年齢や人種などの偏見をも持ち込ませないことにもなる。

 

最後に、個人の次元では、女性ひとりひとりが自立して生きていくことを決意する必要がある。生活給という発想は、「妻と子供を養う」ためにでてきたのであった。ならば、養われる必要がないようにすればいい、というわけだ。女性は、誰かに依存する、ということは「自分の人生の責任を放棄している」ことに自覚的になるべきだろう。

自分の人生に責任を持って生きるということから幸福も生まれるし、初めて自由意思を獲得することができる(これは、男性も同じだ)。助け合うのはいいけれども、それは自立した大人同士としての関係であるべきだろう。

それでも、今のままの形、つまり、夫は妻の生活費を稼ぎ、妻は夫の生活を支えるというのが好みなら、そうするのは自由だ。ただし、その結果に責任を持つのは自分であるという決意はそこでも必要だ。

なんにせよ、自分の選択に責任を持って自由に生きていいのだ。

 

ここまで、女性が仕事でより活躍するための方法を考えてきた。

しかし、ここまできて「日本人の労働」だけ考えても女性の労働は捉えられないということがわかってきた。というのも、教育から労働への移行、ということを考えると教育の視点も必要であるし、外国人労働者の存在もある。

 

単純な事実だが、働きかけるところは「労働」の外側にもたくさんありそうである。

今回はそこまで書ききれなかったが、本書をきっかけに視点が広がった。

 空間と時間超えて、より一層高い視点から眺めてみる必要がある。そうすると、今まで見えていなかったつながりを見出すことができるものだ。

 

私はこれからも女性のことを考え続けるし、人類のことを考え続ける。女性のことを応援するし、人類の幸せを願っている。

 

働く女子の運命 (文春新書)

働く女子の運命 (文春新書)

 

 

働く女子の運命 (文春新書)

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