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21世紀のサイノツノブログ

サイノツノによる提言

可能性は無限大! 『家族を超える社会学 新たな生の基盤を求めて』(新曜社)

書評 現代社会論考

『家族を超える社会学 新たな生の基盤を求めて』を読んだ。

 

書評に入る前に、本を読んでいて感じたことを少し。

 

私は、本書を3年ほど前に必要にかられて一度読んだ。今回改めて読んでみたら、自分の見方の変化に気付いた。大量の読書を重ねることによって、知識に厚みがでたというか。言葉にするのが難しいので体感というしかないのだが、視点が上がった感覚を味わった。気持ちよかった。読書は気持ちいいですよ、世界のみなさん!!!

 

さて、気を取り直して書評に入ろう。

 

本書の内容を一言で言うと、多様な「家族」のあり方を探る試み、とでも言えよう。

かぎかっこつきの家族、としているのは、題にあるように既存の家族の概念を超えるのが本書の目的の一つであり、多様な「家族」の姿が示されているからである。

 

一部が理論で、二部が実践である。

家族とは何だろうか。

著者の一人である上野千鶴子は、90年代に家族の客観的定義が解体したことによって(血縁や性、家計、稼業の共同性が解体したことによって)、「家族とは何か?」という問いが「家族を何であると人びとは考えるか?」という構築主義的な問いに変わったと考察している。

上野は、「どこまでを家族の範囲ととらえるか」(ファミリィ・アイデンティティ)という問いをたて、調査を行った。「主観的」境界と、世帯という「客観的」境界が一致するのかを見てみようというわけである。結果はどうであったか。わかったことは二つ。一つ目は、当事者の間でファミリィ・アイデンティティが一致しないということ。二つ目は、異性間の結婚以外のパートナーシップやペットや死者を「家族」と捉えることがあるということ。

このことによって、逆説的に次のことが明らかになるという。つまり、人びとの家族意識の背後には、この世に運命的につなぐ関係への希求や信頼できる親密圏への要求があるということである。

 

牟田和恵は、近代における家族と政治の関係について批判している。

ジュディス・バトラーは「セックスはすでにジェンダーである」と言ったが、私たちは男/女という区分から未だに自由になれない。そしてそのような男と女を区別せずにはいられない思考が、政治的な利害に一致するのである、と牟田は言う。

これはどういういうことか。まず、いまの家族制度は「男性が妻子を扶養する」家族が制度上優遇されるようにできている。つまり、特権を与えられている。それによって、男性が稼ぎ女性は主婦をするという家族が日本社会のマジョリティとして浮かび上がっている。優遇されるがゆえに、私たちはそういう政治的に決定されたシステムの枠に、知らず知らずのうちにおしこまれているのである。

 もっとも、性別役割分業的な家族は近年解体されつつあるように思われる。男性一人の収入では家計が成り立たないという理由が大きいだろうが、自らの意志で選択する人が増えているのも確かだ。

 

二部の具体的な実践例としては、次のようなものが登場していた。

若者のコレクティブハウジング(いわゆる「ルームシェア」)。ゲイ、レズビアンの家族。ステップファミリー

いずれも様々な問題に直面するも、「家族」として成り立っている。

 

コレクティブハウジングの事例がおもしろかったので少し紹介しよう。当該の章は、2~4人の規模でシェアしている人たちに対して行った調査をもとに考察を進めている。

興味深かったのは、「2人」という関係性のリスクについて触れられている箇所である。単純な話であるが、4人でシェアしている場合、誰か1人が病気などで働けなくなっても25%の収入減で済むが、2人だと50%減であるという話だ。これは家事についても同じである。もちろん、収入の差や収入の多さ自体にもよるだろうが、これは盲点であった。人数が多ければ多いほど各々の負担は減るし、リスクも減るのである。

また、2人だと匿名性がないということがある。たとえば、皿が流しにたまっていたら誰の仕業かすぐわかる。複数いればわからない。わかっても、真正面から衝突して平行線、ということが少ないのだと被調査者のコメントがのっていた。

 

この「2人問題」は夫婦の場合でも同じだ。2人であることによって負担が大きくなっているということはないだろうか。異なる文脈での牟田の思考実験なのだが、子供2人大人2人の家族と、子供1人大人1人の家族と、親元を離れている大学生2人の合計8人の居住を想定してみよう。大人が3人(大学生も大人とすれば5人)である。たとえば子供の迎えが必要な場合、1人が週1回行けば良いことになる。

 

どうだろうか。シンプルな事実ではあるが、核家族に慣れていると気づかないことだ。

この想定が実現するかどうかとか、良いと思うか悪いと思うかは全く個人の選択だし自由だが、少なくとも「家族」の在り様はいくらでもありそうだ。

 

このように、本書は刺激的な示唆に満ちている。一読すれば様々な発見があり、ワクワクすること間違いなしである。

 

 しかし、反論したいことが一つだけある。

社会学」という制限があるので仕方がないかもしれないが、あとがきにおいて「家族」はアイデンティティの保証になるから大切、と述べられていた。

家族がなくても個人のアイデンティティはいくらでも保証されるのではないかと私には思われる。

 

というのも、そもそも、家族以外に人間はたくさんいて、私たち一人ひとりは、それらの人間に支えられて生きているからだ。仏教でいう「縁起」である。何かを食べるという行為ひとつをとっても、素材を作った人、運んだ人、買う人、料理する人、などさまざまな人の協力なしには成り立たたないことがわかる。

それに、生物というところまで視点をあげれば、私たちのからだには細菌などがたくさんすんでいるし、部屋に観葉植物だっている(いない人もいる)。細菌は人を対象とする「社会学」という枠組みには含まれていないから仕方ないとして、家族という発想のみでみると、「家族以外の人」が見えなくなるものなのだと思う。

そのあたりが、社会学以外もそうだが、勝手に線引きされた「学問」の限界でもある。

 

家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて

家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて