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21世紀のサイノツノブログ

サイノツノによる提言

権力と生命 『身体/生命』(岩波書店)

書評

岩波書店からでている、思考のフロンティアシリーズの『身体/生命』を読んだ。

 

このシリーズは全16冊+別冊1冊でているようだが、タイトルを見る限り、社会科学を学ぶ者にとって欠かせない話題が数多く取り上げられている。「権力」、「公共性」、「フェミニズム」などなど。

本書はそのような社会科学の基礎的知識を得るための一冊といったところだろうか。手堅い本であったが、内容はよくまとまっているので読むのは難しくない。

 
 
本書のトピックの一つに、「脳死は人の死であるのか」ということが取り上げられている。今回はこれに焦点をあててみていくことにする。
 
筆者はビシャに着目して議論をすすめていく。 
ビシャにおいて生命は集合的、総合的な「有機的生命」としてとらえられる。ゆえに、「脳死は人の死であるのか」という問いにはビシャ的には「否」となる。
 
ただし、ビシャのいう「有機的生命」の源は心臓や肺である。ビシャ以降の西洋近代医学においては、その源は脳におくようになった、ということに注意が必要である。
さらに言えば、脳幹による生命維持活動のほうが、大脳がつかさどる精神活動よりも重視されているのが現代である。
 
 
「有機的生命」と対照的な概念が「動物的生命」である。「動物的生命」とは、脳を中枢ととらえた見方である。この論者としてホッヘがいる。
ホッヘは、全く意識がなくなったところを人の死ととらえた。意識がないが脈を打っている子供は、彼にとって「死んでいる」ことになる。つまり、ホッヘ的に言えば、「脳死は人の死である」。
 
ここでホッヘによって「生命と死」の書き換えが行われたのである。市野川は、この書き換えを通過することなしにナチス安楽死計画はでてこなかったであろう、と述べている。
 
このナチス安楽死計画とフーコーの「生-権力」概念のかかわりについてみておこう。「生ー権力」概念は、生命を増大させ、人々を生きさせるものである、という考え方である。それへの抵抗として容易に思いつくのは、自ら死ぬことである。
ゆえに、フーコー安楽死尊厳死を支持した。望みもしないのに患者を生かしておく医療は、患者の「死への権利」を拒否している、と言うのである。
しかし、実はこの「死への権利」が「死の中へ廃棄する」生ー権力と共犯関係を結び得るのだと市野川は言う。
 
 
その例としてナチスのプロパガンダ映画があげられている。「私は訴える」という映画である。
重病にかかった妻から「耳も聞こえず話しもできないのは嫌だから殺して」と言われた医師である夫は、妻に致死薬を与えて、裁判にかけられる、という話である。ここで、死は個人の選択として描かれている。しかし、これはゲッペルスもシナリオに関わっているナチス安楽死計画を正当化するためのプロパガンダ映画なのである。つまり、自己決定が権力によって反転させられているのだ。
「死の中への廃棄」はいかに作為的であっても不作為として現象するのである、と市野川は言う。
 
 
ナチスのくだりはつまり、個人に決めさせるフリをしていいように操っているということであろう。私たちが自由に死を選んだと思っていても、その選択は権力のおよぶ範囲の中で行われている、ということがありうるのである。
本当の意味での自己決定は、きっと権力の範囲外にある。本当の意味での自己決定をするには、本書のような本で権力の性質を学んでおくことが必要だ。

 

身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)