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21世紀のサイノツノブログ

サイノツノによる提言

参議院選挙を前に、女性議員について考える 『日本の女性議員』(朝日選書)

For Women フェミニズム 書評 現代社会論考

参議院選挙が公示されたので、今日は『日本の女性議員 どうすれば増えるのか (朝日選書)』(三浦まり・編著)を紹介する。本書は、女性議員へのインタビュー、アンケートなどを用いて、女性議員をめぐる状況を分析している。今回は参議院選挙に絡めて紹介するが、大事な指摘が数多くあるのでぜひご一読ください。

 

参議院は<クリティカル・アクター>となる女性議員が誕生しやすい

<クリティカル・アクター>とは、少数でもジェンダー平等に取り組む女性議員のことである。女性に関する重要な法律(1990年代後半~2000年代前半)は、議員立法が多いのだという。

女性議員の選出基盤は比例代表に多いと著者は指摘する。その理由は、女性政策に<コミットメント>している人が政党にリクルートされるからであるという。また、特に参議院の場合は、任期が長いので、当選後も選挙のことに気をとられずに立法に注力できる、という証言も紹介されている。

つまり、票をとれる候補をそろえる衆議院選挙と、<コミットメント>する候補をそろえる参議院選挙は一線を画すということであろう。

 

政治家の仕事とは何か

政治家の仕事は「立法」である。

本書によれば、議員になる動機として、女性議員には問題解決志向の傾向があるという。その問題への<コミットメント>があるからこそ、党を超えたネットワークを使って、DV防止法などを立法することができたのだ。

一方、男性議員の動機は権力志向の傾向があるという。とはいえ、議員立法をバリバリする男性議員もいるし、心から国民のために仕事をしている男性議員がいることは理解している。いろいろ批判もあるが、田中角栄議員立法しまくっていたし。でも、そういう議員ばかりじゃない(もっともこれは、官僚主導の立法ばかりであるという日本の国会自体の問題でもある)。

男女問わず、立法の仕事をしない政治家は必要ない。権力を動機に政治家になる人が、果たして立法できるだろうか。

また、女性議員は、メディアにおいて、容姿や服装についてしつこく言及されることが多いが、それは「女性政治家の評価は仕事ぶりではなく好感度だ」というメッセージを発していることになるのでやめるべきである、と著者は言う。立法という仕事に、容姿や服装は関係がないのは小学生でもわかることであろう。

 

女性議員はどうすれば増えるのか

女性にとって立候補の疎外要因は、家族の協力が得られないこと、家族的責任が重いこと、候補者を選ぶのがほとんど男性であることだという。ならば、それをクリアすればいい。ある県の県議会議員は、夫の実家から立候補を反対されたそうだが、逆に燃えた、というインタビューが紹介されている。身近な所から政治は始まっているのだ。初めはハードかもしれないが、女性議員が増えれば確実に状況は変わっていく。というのも、<クリティカル・マス>といって、女性比率が30%を超えると質的変化が起こるのだという(最近よく言われている「女性○○を30%に」の根拠はこれなのかもしれない)。

また、3・11以降議員のなり手は潜在的にいる(脱原発デモや保育園デモなど)ので、そういう人を政党側が見つけ出す努力も必要だろう、と著者は指摘している。

 

なぜ女性議員を増やすべきなのか

女性議員が少ないのは問題だ、という主張をすると、「なぜ、女性議員を増やす必要があるのか」と反論する人が必ずいるらしい。そういう時、「では、男性ばかりであることのメリットは何ですか?」と問い返す必要があると著者は言う。民主主義のあり方として、今のように女性議員が極端に少ないのは問題なのではないか?基本的権利としての政治参加は全ての人に認められているはずでは?一方の性別のみで政策を決めると、ゆがみが出るのではないか?など。

実際、女性議員の問題意識と男性議員の問題意識の傾向が異なるということが、著者達が実施した調査においてわかっている。女性議員を増やすことは、未だ解決されていないが困っている人がたくさんいる問題の解決につながるはずだ。

 

各党は女性に関わる政策をどう考えているか

さて、今回の選挙の話だが、自民党のHPや街頭演説では「アベノミクス」が強調されているものの、実際の争点は「改憲」であると言われている(さらに言えば、96条が狙いらしい)。ゆえに、改憲についてどう考えるか、というのが投票のポイントになるかと思う。とはいえ、今回のテーマは女性議員なので、各党が女性に関わる政策をどのように考えているのかについても少し触れておこう。

 

以下が参考になると思う。

www.asahi.com

 

また、以下のサイトでは、他のトピックについても選択するだけで候補者ごとまたは党ごとの政策が瞬時にわかる。日本の国会では、議員が個別に動くというよりも党の方針に拘束されるので、議員の個別の政策も大事とはいえ、まずは所属政党の方針を確認するべきだと思われる。

www.asahi.com

最後に

本書を読んで、地域の活動を通して候補者が出てくること(特に地方議会レベルでは)を考えると、自分の生活と政治は直結しているのだということを実感することができた。

意思決定の場に、人口の半分を占める女性がいることはとても大事なことであり、今回の選挙でも女性議員が増えることを願うばかりだ。もっとも、近年は性差別的な女性議員が注目を集めており、女性議員だからといって期待できるわけではない。しかし、それでも女性の地位を改善しようとしている議員は少なからず存在している。まずは、候補者のHP、政党のHP、上記のHPをのぞいてみることからはじめよう。

 

(おまけ)

今回の記事を書くにあたって知ったのだが、衆議院選挙の比例復活の際にクオータ制に似た制度を導入する案が出ているらしい。これは楽しみだ。

社説:女性議員の割合 超党派案に注目したい - 毎日新聞

 

日本の女性議員 どうすれば増えるのか (朝日選書)

日本の女性議員 どうすれば増えるのか (朝日選書)

 

 

女性どうしの友情 『対岸の彼女』(文春文庫)

For Women 書評

「女どうしの友情は脆い」と世間は言う。「マウンティング女子」(相手よりも自分の方が上であると示す女子)などという言葉さえある。女性同士を引き裂こうとする言説は世の中に溢れている。しかし、フェミニズム関連の本をあたっていると、「連帯」というキーワードが頻出する。より多くの可能性を探るためには、もっと女性同士の関係性を考える必要があるなあと思っていた。

そんなときに、『対岸の彼女 (文春文庫)』(角田光代・著)が、シスターフッドの物語だとして『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』の中で紹介されていたので、さっそく読んでみた。良かった。おもしろかった。わくわくした。今日は『対岸の彼女』の書評をしながら、女性どうしの友情について考えてみたい。
 

概要

直木賞をとった作品で、映画化もされているようなのでご存知の方も多いかもしれないが、一応概要を説明する。

主人公は、旅行をメイン事業とする会社の社長の「葵」35歳。3歳の娘と夫を家族にもつ主婦の「小夜子」35歳。二人は同じ大学出身、同い年という共通点がある。

ストーリーは、小夜子が一念発起して葵の会社に入るところから始まる。その後は、葵目線の高校時代の話と、小夜子目線の現在の話が交互に語られていくという形式で物語は進行する。二人はだんだん親しくなっていくのだが、会社の内紛、葵の少し変わった過去が原因となって、小夜子は葵からいったん離れてしまう。しかし、その後二人は社員のいなくなった会社で新たなスタートを切る。
この話のミソは葵の過去にある。その過去とは、葵は高校時代の親友・ナナコと「ある事件」を起こし、週刊誌に報道されたこと。そして小夜子はその事件を記憶していた。
 

女性どうしの友情とは何か 「一人の人間」として向き合うこと

葵は、小夜子が義母に嫌味を言われていることを知ると「ぶっ飛ばしてやれ!」と言う。葵は、小夜子の娘の運動会に来てビデオをとる。小夜子と娘と葵で、伊豆に行く。小夜子の家で、二人で仕事をする。小夜子は、「葵といたら何でもできそうだ」と思う。
一人の人間として向き合うこと。既婚や独身など、それぞれの立場の違いを超えて励まし合うこと。これが友情なのだと思う。
 
女性は、結婚すると特に、「一人の人間である」という感覚が薄れがちだ。それは、「○○の妻」とか「○○の母」とか「○○家の嫁」とか、誰かの付属物のように表現されることが多いからなのではないだろうか。しかし、人間どうしの関係というのは「一人の人間である」という共通のベースがなければ生まれない。「一人の人間である」という感覚を失いやすいから、女性の友情は築きにくいように思えるのではないだろうか。たとえば、ママ友が「友達」ではなく「ママ友」であるのは、子どもや夫の話しかしないから(推測)だろう。
葵は、初めから同い年の友達として小夜子に接した。小夜子を励まし、小夜子と語り合った。葵は独身なので必然的なことなのかもしれないが、娘がどうのとか、夫がどうのということは抜きに小夜子と接した。
 
「一人の人間である」という共通ベースは、パートナーとの関係でも必要だ。パートナーを一人の人間として認識していないから(付属物、所有物として認識しているから)、DVが行われる(『愛を言い訳にする人たち―DV加害男性700人の告白』)。
小夜子の夫は、子どもの世話を頼むと嫌な顔をする、小夜子の仕事は替えのきく仕事なのだから辞めろと言う、そんな夫だ。DVは行われていないが、小夜子を一人の人間として扱っているかは怪しいだろう。
 
小夜子と夫、小夜子と葵の関係は、人間と人間の関係であるという点で同じだと考えると、本当に人間どうしの関係だと言えるのはどちらだろうか。もうそんなの決まっている。婚姻届を出したからといって、人間どうしの関係が自動的に作られるわけではないのだ。お互いがお互いを一人の人間として尊重し合って初めて、人間どうしの関係、ひいては友情が生まれる。女性どうしの友情は、まずは自分自身が「一人の人間である」ことに目覚めるところから始まるのではないだろうか。
 

本書の魅力

小夜子が会社を辞めたあと、自分の心と向き合って、葵と協力する道を選ぶのが本書の魅力。王道の価値観なら「主婦に戻って家族を大切にするわ~」となりそうなところを、小夜子はさわやかに覆す。
家族が大切なのはもちろんだけれど、家族以外の大切な関係だってたくさんあるのだから、こういう小説がもっと増えてほしい。
おわり。

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

角田光代の作品は、初期のものを立て続けに読んでいたことがあるが、本書の世界観と全然違った記憶がある。初期の作品は、女の子が一人の世界で一人でもがいているような話が多かったかもしれない(わたし自身が迷走していた時に読んでいたからかもしれないが)。それに比べると、本書は純粋に誰でも読めると思う。 

対岸の彼女 [DVD]

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『 きらきらひかる』も、王道の関係以外を描いた作品。

「女は得だ」は本当か?--レディースデイ、女性専用車両、アファーマティブ・アクション

For Women 現代社会論考 フェミニズム

「女は得だ」と言う人がいる。

そうかもしれない。というのも、今の日本は相対的に女性が不利なシステムで動いているけれども、その一方で、女性は不利なシステムを逆手にとった「戦略」をとることができるからだ(『女性学・男性学 改訂版 -- ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』)。

例えば、体力的な弱さを理由に保護されることはその「戦略」の一例である。重いものは男性が運ぶといったことだ。男性の方が稼いでいるから、食事は男性が奢るものといったことも、経済的な格差を逆手にとった「戦略」の一つであろう。

得だ、と言っている人はこのようなことを指していると思われる。

しかし、よく考えてみよう。保護されるということは、一人前とみなされていないということでもある。責任がとれない存在だということだ。それって、ペットや子供、(昔なら)奴隷と変わらないのではないか?どのような人でも人間として扱いたいと思うし、人間として扱われたいと思う私は、そのような戦略を以て得だとは考えられない。

 

「女は得だ」のほかの事例はどうだろうか。

映画の割引、レディースデイはどうだろうか。これは、マーケティングの問題であろう(毎週水曜日は「レディースデー」 …これって「性差別」じゃないの? | シェアしたくなる法律相談所)。つまり、映画ビジネス。

婚活の女性料金が男性よりも安いことが多いことはどうか。これは、女性が売り手の市場であるということであろう。つまり、婚活ビジネス。

女性専用車両はどうか。人権侵害である痴漢という行為が多発し、被害者のほとんどが女性であるということを考えたら、これは現状に合わせたやむを得ない措置だろう。もっとも、暫定的にはたしかに意義があると思うが、将来的にはわざわざ分ける必要がないように、人権侵害であり犯罪である痴漢という行為自体をなくす取組が必要だろう。また、そもそも満員電車自体がおかしいという問題がある。おそらく、女性専用車両で女は得している、と言う人は、「満員電車の苦痛を逃れやがって」と言っているのだと思う(とは言え、女性専用車両は、男性にとっても痴漢冤罪のリスクを下げるという意味では歓迎すべき措置であるとも言えるのだが)。満員電車はたしかに苦痛だが、女性専用車両は満員電車を逃れるというよりは、痴漢対策の話だから、それはまた別の問題だろう。

 

女は得なのだろうか?

アファーマティブ・アクションはどうだろうか。

ジェンダーの法律学 第2版 (有斐閣アルマ)』によれば、アファーマティブ・アクションは、「過去の差別の結果としての格差を埋める」措置である。「女性差別撤廃条約」において、国連は、男女平等達成のための国の責任を明らかにしている。国の責任の根拠は、人権を構成する要素の一つである社会権である(人権のもう一つは自由権)。社会権は「自由権の保障の結果としての自由放任体制によってもたらされた階級を是正」するためのものである。国は、自由権に関しては介入してはならないが、社会権に関してはむしろ積極的に介入する必要がある、とされている。つまり、国に対して、事実上の平等のために、差別禁止法の制定や家庭と社会的役割を両立するための制度の創設などによって、社会権の保障を求めているのである。その保障のためのアファーマティブ・アクションであるのだ。

アファーマティブ・アクションの成功例として、アメリカがある。1967年、国と契約している企業や国から援助を受けている教育機関に対しての「行政命令」によって開始された。まず、該当の団体に計画書を作らせる。作った計画が実施されなければ、企業名の公表、契約停止、資格はく奪、援助停止などの厳しい措置がとられることとなった。訴訟も多かったが、1970~80年代にかけて、大きな効果があったという。これは、しっかりと罰則を定めたことが成功の理由である。

「過去の差別の結果としての格差」を埋め、国連が積極的な介入を求めており、実施した国では効果があるアファーマティブ・アクション。これは、人権の保障の一形態であり、決して女性が得をする、ということではない。

日本の状況を見るに、自然なままに任せていたら女性の社会的な地位は向上しない。管理職や政治家として意志決定の場に女性が参画できるように、アメリカくらいの意気込みでアファーマティブ・アクションを行うべきだろう。日本も国際社会の一員なのだから。

もちろん、アファーマティブ・アクションはあくまで緊急対策のようなものである。未来のあり方としては、どのような性別であってもフェアなのが一番だ。その前に、あまりにも不均衡な状態を変えなければお話にならない、ということだ。

 

「女は得だ」は本当だっただろうか?

検証はここでおしまいだ。

 

さいごに。

常々思っていることだが、性別というのは便宜的なものに過ぎない。なぜなら、本当は男とか女とかきっぱり分けられないからだ。体つきのざっくりとした傾向はあるけれど(ペニスとかヴァギナとか)、それでもインターセックスだってあるし、性的指向まで含めればヴァリエーションは様々だ。性別は、今の枠組みの中で何かを伝えるための共通言語くらいの意味しかない。また、性別は「あなた」の構成要素の一つに過ぎない。

なのに、性別だけで社会的役割が決まったり(これがまさにジェンダーということ)、差別があったりする。男性より体力のある女性だっているし、男性より稼いでいる女性だっているのに、性別で論じようとすると、そういった当たり前の事実を忘れそうになってしまう。本来は、性別の差よりも、個人差の方を見る必要があるはずなのだ。性別という色眼鏡をかけて「あなた」を見ると、「あなた」の色々な部分が見えなくなってしまう。

私は目の前の「あなた」のあるがままが見たいのだ。「女は○○だ」「男は○○だ」というような、性別だけで人間を語る時代を終わらせたいのだ。だから私はこういう記事を書いている。

 

女性学・男性学 改訂版 -- ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)

女性学・男性学 改訂版 -- ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)

 

大学1年生でも理解できるように書かれた入門書。まんが付き。女性学男性学が扱うトピックの全体像を掴むことができる。著者の1人である伊藤氏は、日本における男性学の創始者であるので、「男性」というジェンダーゆえの問題が詳しくわかる。

ジェンダーの法律学 第2版 (有斐閣アルマ)

ジェンダーの法律学 第2版 (有斐閣アルマ)

 

 ジェンダーの問題に関する国連の動き、各国の女性参画への取り組み、日本における女性の人権に関わる法律などが詳細に解説されている。国際的な流れがどのように変化してきたのか、それを受けて日本の法律がどう変化してきたのかがよくわかる。日本の女性参画への取り組みに足りないのは、国・自治体・企業の積極的な介入である。

 

実はこの記事、ちょこちょこ更新してます。

horn-of-rhinoceros.hatenadiary.jp