21世紀のサイノツノブログ

サイノツノによる提言

何でも自分で作ってみようーー消費から考える生き方

 

数年前まで私は消費に依存した人間だった。

どういうことかと言えば、「壊れたらまた買えばいいや」といったモノに対する愛情のなさ、「季節が変わったから新しい服を買わなくては」といった強迫観念を持った人間だった。今思えば、自分の特質に由来する感情だったのかもしれないけれど、基本的には、消費に対してあまりにも無防備、無関心だった。

しかし、自分にも何事にも真剣に向き合うと決めてからは、お金は「必要なモノ」「気に入ったモノ」に使うようになった。「こうありたい自分」のために使うようになった。自分の意志抜きの使い方をしなくなった。

 

お金を出しても「気に入るモノ」「必要なモノ」が手に入らない時。そんな時は、自分で作る、あるいは、やってみることにしている。

たとえば、家で料理をする。家で髪を切る。アプリを自作する。飾る絵を自分で描く。ピアスを自作する(これはこれから挑戦)。

自分でやってみて気付くのは、クリエイティブ感覚を味わえて面白いということ。それから案外簡単なこと。

なにより、自分で好きに作ると「期待外れ」とか「損した」とか「なんか違う」とか、微妙なモノを買ってしまった後の残念な感情が湧くことがない。もちろん手間がかかったり失敗することもあるけど、それも含めて面白がれる(ことを心がけている)。自分がやっているという実感があるとなんでも興味深い。

 

誰かが作ったものを買うことは、実はリスクが大きい。なぜなら、100%満足できるか分からないからだ。100%満足できる消費体験は今までに何回あっただろうか。消費で100%の満足を得るためには、慎重な見極めが必要なのだ。「これしかありえない」というモノに出会えればいいが、出会えていないのに妥協して買ってしまうと、アレ?となってしまう。

 

気に入らないなら、自分で気に入るものを作る。これはそのまま、生き方にもあてはまることだと思う。もし誰かがつくった生き方が気に入らないなら、自分の働き方、自分の恋愛、自分の死に方を、自分で100%決めること。妥協して今ある生き方 を選ばないこと。揺らいでしまう自分に気づいたら、もう一度よく考えて、自分の生き方を決めること。

 

年をとってもイキイキしていて欲しい

実家に帰省した際、祖母が歌謡曲のテレビを見ながらボソッと言った。「こんなのしか楽しみがないよ」。わたしは、祖母の孤独と諦めを目撃して、悲しい気持ちになった。

今日は、おばあちゃんやおじいちゃん(ご高齢の人たち)の幸せについて考えてみたい。

 

日本は高齢社会

現在、日本の人口の4分の1が65歳以上である。高齢者の定義を変える提言もあるが、あくまでも政策上の戦略であって、65歳以上の人が多数いることに変わりはない。人口の4分の1を占める人たちがもっと幸せになれば、社会に与えるプラスの影響は大きいと思う。

たしかに、定年の撤廃、再雇用制度など、企業の領域で高齢社会に対応したシステムはよく聞くようになったし、これらの制度を使ってやりがいを感じる人が多数いるのは事実だ。しかし、このような制度は高齢の方々個人の幸せを考えて、というよりは、労働人口減少への対処だろう。

ここでは高齢の方々個人の幸せについて考えてみたい。

 

幸せとは何か

幸せはそれぞれが主観的に感じるものだけれど、基本的には好きなことをしているとき、とざっくり定義できるのではないかと思われる。あばあちゃんは好きなことしていないのだろうか。

 

おばあちゃんについて

かつての祖母には、好きなことがあったように思う。それは、近所の友達や習い事の友達との付き合いだ。その時の祖母は、愚痴をいいながらも、孤独は感じていなかったように思う。

しかし、やがて近所の友達は病気にかかったり、身体が不自由になったりして、祖母を訪れることはなくなった。祖母自身の身体も衰え、習い事も辞めてしまった。友達との付き合いがなくなってしまった。

 

ご老人たちが普段していること

そもそも、おばあちゃんの日常生活って、なんだろう。パッと思いついたのは、祖母を含めたご老人の日常生活の中心は、テレビではないかということ。しかし、テレビは、他人が作った世界であり、好きなこととは違うのではないか。特定の番組だけを狙って見るのであれば、それは、まだ自発的に好きなことをしているとも言えるだろうが、おそらくそういった見方はしていないのではないだろうか。たしかに、テレビは一時的には幸福を与えるかもしれないが、テレビを消して現実に戻れば日常が待っている。テレビを消しても楽しい好きなことを新しく見つける必要があるのではないか。友達がいなくてもできること。

 

なぜ好きなことができないか

時代が負うところの多い「教育の不行き届き」のせいで、チャレンジしたくても閉じ込められている様な気がする。端的に言えば、「選べることを知っている」ことや選択肢に対する知識の差であると思う。

どういうことか。祖母は80代で、中学校までしか出ていないし、若くしてお見合い結婚をした。教育を受ける機会がなかったし、親の言いつけに従って生きるしかなかった。まさに選べることを知らなかったし、今の若い世代ほど知識もなかったのだ。

しかし、知識はいつでも身に着けることができる。知識によって、選択肢を増やすことができる。知識にアクセスできるエリアをもっと広げるために、社会がご老人に対して何かしらの働きかけをできないものだろうか。生涯教育、とよく言われるけれど、実際どの程度浸透しているのだろうか。通信大学ももっと知られて良い気がする。

もっとも、スーパーおばあちゃんみたいに、自分で見つけられる人もいる。

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加齢に対して、必要以上に悲観しない

年齢とともに身体の様々な機能が衰えていくのは自然なことであるし(医療が進んだ数十年後の世界では、機能の衰えは緩やかになっていくだろうけれど)、周りの人が亡くなるのも自然なことだから、それらに対して諦めを感じる必要はないはずだ。もちろんアンチエイジングなどの必要な対策をするのは前向きだと思うしそれは個人の自由であるけれど、ここで言いたいのは、「歳をとるにともなって起こる自然なこと」に対して、必要以上に悲観することはないのではないかということである。

悲観しないで、とにかく好きなことをして欲しい。どんな年齢であれ、好きなことをしている人はたとえ仲間がいなくてもやっていること自体が楽しくて仕方ないから孤独など感じないし、結果的にどこかのタイミングで自然と仲間もできるものだと思う。

 

孫のお手本

おじいちゃんおばあちゃんが全力で好きなことしていたら、本人たちだけでなく周りにもプラスの影響がある。挑戦する人の存在は、見ていて力強く、周りを元気づけるものだ。特に、子供は大人の姿勢を見て育つ。おじいちゃんおばあちゃんは、孫や若者の素晴らしいお手本となるチャンスなのだ。そして、お手本となることで、さらに喜びも増すのではないだろうか。年をとることを卑下しないで、年齢なんて気にしないで、いつでも新たにチャレンジしてほしい、と思う。今のおじいちゃん、おばあちゃんたちの扱われ方を見ると、一人の大人としてよりも、とにかくいなしておけばいい存在として扱われているように感じられるし、本人たちもあまんじてその立場を受け入れているような気がする。しかし、私は、おとなしくしていて欲しくないのだ。祖母からお小遣いをもらうよりも、そのお小遣いで新たに何かに挑戦してイキイキしている祖母を見る方が嬉しい。もちろんお小遣いもとっても嬉しいのですが。笑

 

坂口恭平を知っていますか

阿刀田高みたいなタイトルだが、今日は、坂口恭平氏を紹介したい。

「自由」とか「思い込みを取り去る」などを意識してブログを綴ってきたが、坂口恭平氏は、それらをナチュラルに実践している人である。

近年は作家活動がコアのようだが、今までの彼の活動は多岐に渡る。彼のことを何と表現するのかは難しいところだが、一言でいえば、「本物のアーティストだ」と思われる。思考によって建築すること、「見えないのに、ある空間」(TOKYO一坪遺産 (集英社文庫)より)への興味を持つこと、これらが彼の行動の原理だと理解している。

学生も終わりにさしかかる頃に、初めて坂口氏の本と出会い、大いに触発された。もちろん現在でもエネルギーをいただいている。じゅうぶん有名だけれども、彼の作品に触れることは世界を広げる助けになると思うので、ぜひ紹介しておきたい。

紹介の都合上、僭越ながら、彼の仕事を5つに分けてみていきたいと思う。

 

1.世界の見え方を変える思考法

坂口氏の作品をまだ読んだことのない人におすすめしたいのが以下の2冊。

新書という形態なのでしっかりとまとまっており、彼のバックボーンや思考が掴めると思う。わたしが初めて読んだのも、『独立国家のつくりかた』だったと記憶している。

 

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

 

東日本大震災を受けて書かれた本。経済の考え方がとても印象に残った。「態度経済」、「お金を稼ぐことと社会を変えることを結びつけてはいけない」、必要とされること(一緒にいたいと思われること)が生き延びるための技術、などなど。今思えば、私も坂口氏の存在が必要だと感じるから、本を買ったりこうして紹介したりしている気がする。

 

現実脱出論 (講談社現代新書)

現実脱出論 (講談社現代新書)

 

葉の緑色は、人間の顔色のように変化しているのではないか。日曜の朝は行動に時間が並走しているように感じる。98歳の自分と0歳の自分もすでに存在している。 などなど、印象的な感覚が紹介されている。

 

2.フィールドワーク

坂口氏は建築学科を卒業しているが、従来の建築には疑問を抱いていて「建てない建築家」。小さい頃から、自分の机の下を秘密基地にするなど、「巣」に興味を持っていたそうだ。ホームレスのおっちゃんたちは、坂口氏が思う「巣」を作って暮らしていた。自分の体の延長としての巣である。工夫して空間を心地よく使う。ホームレスのおっちゃんの住居の機能性(?)は驚きである。「都市の幸」を使って、楽しくサバイブするおっちゃんたちの姿を生き生きと描く彼の作品群は、常識をひっくり返す。

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

 

この本がデビュー作。ホームレスのおっちゃんへの濃密なフィールドワークに基づいて書かれている。自分の中の常識がガラガラと崩れた。見えない世界、見えていない世界「レイヤー」は、この日本にもまだまだたくさんあるのだ。彼のフィールドワーク系の本は何冊かあるが、一冊選ぶならこれだと思う。

 

ゼロから始める都市型狩猟採集生活
 

こちらは、都市で0円でモノ(「都市の幸」)を集めてサバイブするための実用書として書かれている。都市の生活者たちの知恵にうならされる。あしたから都市に放り出されても生きていけるぜ!という本。

 

3.音楽活動

彼は、ギター弾きであり、シンガーソングライターでもある。ライブを開催したり、出版記念トークなどの機会があるたびに歌っているようだ。先日は、「抗鬱ライブ」と銘打って、ツイキャスで生放送もしていた。なにかの本に書いていた気がするのだが、学生時代、インドでギター1本で稼いだこともあるらしい。家族と歌ったりもいる。彼の表現方法の一形態として、かなり重要なのではないかと個人的には思っている。以下で、無料で聴けるようにしてくれている。わたしは持っていないが、CDも出している。

 

soundcloud.com

 

新しい花

新しい花

 

 

4.小説

Twitterなどを見ていると、彼は、書くことで躁鬱(あえて双極性と言わないらしい)を上手く乗りこなしているようである。とにかく書く、書く。最近の作品は、ベケット風と称されているようだ。かくいう私は、彼の小説とは水が合わないのかもしれないと思っているのだが。『現実宿り』を読んだものの、なんとも言い難いのであった。でも、好きな人は好きなはず。他の小説作品にもTRYしてみようと思う。

現実宿り

現実宿り

 

 

5.絵(ドローイング)

絵を描くのが上手ではないわたしにも、彼の絵、ドローイングが独特の力強さを持っていることは直感的にわかる。1で紹介したフィールドワーク作品は、この絵がなくては成立しないのかもしれないと思う。彼の絵の展覧会なども断続的に開かれている。海外に、彼の絵のコレクターもいるそうだ。Twitterでもドローイングを発表している。

思考都市 坂口恭平 Drawings 1999-2012

思考都市 坂口恭平 Drawings 1999-2012

 

挿絵に使った絵はもちろんのこと、若かりし頃の写真、手帳の一部などが収録されていて見応えあり。文章も手書きで、この本自体がひとつのドローイング作品なのかもしれない。

 

以上である。

坂口恭平氏は、表現者であること、伝えたいことが、強烈に先にあって、その表現の手段が多岐に渡っている、という印象である。形がないし、形にこだわらないし、形を自分で作っている感じだ。自身の在り方と作品が一致しているという意味で、とても誠実なアーティストだと感じる。

ふだん見えていない次元からイメージを集めてきて現実に表現する彼の作品を見ると、創造性を刺激される。彼のような在り方、彼が取材した人々のような在り方がありうるということを知ると、今までの世界が少し違って見えるはず。