21世紀のサイノツノブログ

サイノツノによる提言

ブラック企業を辞めることについて

ブラック企業に関する興味深い記事を見たので、シェアします。

 

toyokeizai.net

 

ブラック企業を辞めた1人として、ブラック企業を辞めることについて考えたいと思います。

私がいた会社は、記事の通り「ブラック経営者やブラック上司にとっては、従業員はモノ同然であり、自分の命令に従わない者は不良品だとみなし、数時間にわたって延々と怒鳴りつけ、減給処分や罰金というムチを与え続けることで、考える余力を奪う」ような会社でした。会社幹部は、毎日行われる会議で、怒鳴り、机を叩きました。平社員たちのやる気は下がり、足を引っ張り合い、赤字続きです。幹部たちはさらに社員にムチ打ちます。悪循環でした。」

 

ブラック企業がなくならない理由の一つとして、筆者は、理不尽な労働環境を受け入れる労働者が一定数いることを挙げています。なぜ受け入れるのかについて、職場に迷惑をかける、転職=敗北という価値観が残っている、転職活動の時間がない、転職しても理想の働き方を実現できない、と考える人が多いのではないかと筆者は見ています。

  

記事には書いていませんでしたが、厳しい労働環境を受け入れてしまう理由に、年齢が上がるにつれて転職しづらいという転職市場の問題もあるのではないでしょうか。実際、40代~50代の従業員は、辞めたいけれど転職活動が厳しいと漏らしていました。定年を迎える従業員は、もう会社にしがみつくしかないという感じでした。

ところで、転職市場の年齢問題も、ブラック企業と関係あるかもしれません。若者ほど扱いやすく低賃金で使い捨てしやすいので、若者を欲しがる企業が多いのかもしれません。

転職市場の問題はここでは置いておきますが、今は売り手市場なので必ず仕事はありますし、スキルや経験を活かして独立してお金を稼ぐ道もあるかもしれません。失業保険もありますし、いざとなれば生活保護もあります。もしかしたら収入は下がるかもしれませんが、健康は守れます。

 

とはいえ、いざ辞めようと決意しても、いきなりは辞めづらいかもしれません。そんなときは、メンタルクリニックを受診するのも一つの手段です。有給がとりづらいブラック企業でも、病気ならば周囲も文句は言いづらいと思います。診断書を出した場合、少しでもまともな判断力のある会社ならば休ませるはずです。ゆっくり心と身体を休めながら今後の判断ついて考えることができます。長時間拘束されていると、思考が狭くなり「この会社にいるしかない」と思い込むことがありますが、少し離れてみると、様々な可能性があることに気付けます。また、休んだまま辞めることもできます。

 

私が辞めたいと思うと同時に思ったことは、人数の少ない会社だったので、迷惑をかけるということでした。また、入社してからの期間が短かったので、今後の転職に不利になると思いました。それでも、私は辞めました。自分の心と身体が一番だという思いが勝ちました。そもそも、一人抜けたぐらいで支障がでるような会社は経営に問題があるのであって、従業員のせいではないのだと思いました。また、自分が辞めることはブラック企業を減らすことにつながる、とも思いました。東洋経済の記事の主張と同じです。

厳しいことを言えば、ブラック企業に不満を抱きながらブラック企業に居続ける人は、その企業の維持に加担しています。しかし、自分だけのためではなく、次の世代のためでもあると思って、辞めるという選択肢を持ってほしいのです。記事の主張のように、辞める人が増えれば(人手不足になれば)、企業は潰れるかやり方を変えるかしかありません。サイボウズや佐川急便のSGホールディングスは後者の方法を取りました。

支配される人がいなければ、支配は存続できません。ブラック企業がなくなるかは、雇う側だけの問題ではないのです。雇われる側の行動にもかかっています。会社に関わる人はみな当事者なのです。

 

 

 働き方について以前書いた記事を貼っておきます。

horn-of-rhinoceros.hatenadiary.jp

 

何でも自分で作ってみようーー消費から考える生き方

 

数年前まで私は消費に依存した人間だった。

どういうことかと言えば、「壊れたらまた買えばいいや」といったモノに対する愛情のなさ、「季節が変わったから新しい服を買わなくては」といった強迫観念を持った人間だった。今思えば、自分の特質に由来する感情だったのかもしれないけれど、基本的には、消費に対してあまりにも無防備、無関心だった。

しかし、自分にも何事にも真剣に向き合うと決めてからは、お金は「必要なモノ」「気に入ったモノ」に使うようになった。「こうありたい自分」のために使うようになった。自分の意志抜きの使い方をしなくなった。

 

お金を出しても「気に入るモノ」「必要なモノ」が手に入らない時。そんな時は、自分で作る、あるいは、やってみることにしている。

たとえば、家で料理をする。家で髪を切る。アプリを自作する。飾る絵を自分で描く。ピアスを自作する(これはこれから挑戦)。

自分でやってみて気付くのは、クリエイティブ感覚を味わえて面白いということ。それから案外簡単なこと。

なにより、自分で好きに作ると「期待外れ」とか「損した」とか「なんか違う」とか、微妙なモノを買ってしまった後の残念な感情が湧くことがない。もちろん手間がかかったり失敗することもあるけど、それも含めて面白がれる(ことを心がけている)。自分がやっているという実感があるとなんでも興味深い。

 

誰かが作ったものを買うことは、実はリスクが大きい。なぜなら、100%満足できるか分からないからだ。100%満足できる消費体験は今までに何回あっただろうか。消費で100%の満足を得るためには、慎重な見極めが必要なのだ。「これしかありえない」というモノに出会えればいいが、出会えていないのに妥協して買ってしまうと、アレ?となってしまう。

 

気に入らないなら、自分で気に入るものを作る。これはそのまま、生き方にもあてはまることだと思う。もし誰かがつくった生き方が気に入らないなら、自分の働き方、自分の恋愛、自分の死に方を、自分で100%決めること。妥協して今ある生き方 を選ばないこと。揺らいでしまう自分に気づいたら、もう一度よく考えて、自分の生き方を決めること。

 

年をとってもイキイキしていて欲しい

実家に帰省した際、祖母が歌謡曲のテレビを見ながらボソッと言った。「こんなのしか楽しみがないよ」。わたしは、祖母の孤独と諦めを目撃して、悲しい気持ちになった。

今日は、おばあちゃんやおじいちゃん(ご高齢の人たち)の幸せについて考えてみたい。

 

日本は高齢社会

現在、日本の人口の4分の1が65歳以上である。高齢者の定義を変える提言もあるが、あくまでも政策上の戦略であって、65歳以上の人が多数いることに変わりはない。人口の4分の1を占める人たちがもっと幸せになれば、社会に与えるプラスの影響は大きいと思う。

たしかに、定年の撤廃、再雇用制度など、企業の領域で高齢社会に対応したシステムはよく聞くようになったし、これらの制度を使ってやりがいを感じる人が多数いるのは事実だ。しかし、このような制度は高齢の方々個人の幸せを考えて、というよりは、労働人口減少への対処だろう。

ここでは高齢の方々個人の幸せについて考えてみたい。

 

幸せとは何か

幸せはそれぞれが主観的に感じるものだけれど、基本的には好きなことをしているとき、とざっくり定義できるのではないかと思われる。あばあちゃんは好きなことしていないのだろうか。

 

おばあちゃんについて

かつての祖母には、好きなことがあったように思う。それは、近所の友達や習い事の友達との付き合いだ。その時の祖母は、愚痴をいいながらも、孤独は感じていなかったように思う。

しかし、やがて近所の友達は病気にかかったり、身体が不自由になったりして、祖母を訪れることはなくなった。祖母自身の身体も衰え、習い事も辞めてしまった。友達との付き合いがなくなってしまった。

 

ご老人たちが普段していること

そもそも、おばあちゃんの日常生活って、なんだろう。パッと思いついたのは、祖母を含めたご老人の日常生活の中心は、テレビではないかということ。しかし、テレビは、他人が作った世界であり、好きなこととは違うのではないか。特定の番組だけを狙って見るのであれば、それは、まだ自発的に好きなことをしているとも言えるだろうが、おそらくそういった見方はしていないのではないだろうか。たしかに、テレビは一時的には幸福を与えるかもしれないが、テレビを消して現実に戻れば日常が待っている。テレビを消しても楽しい好きなことを新しく見つける必要があるのではないか。友達がいなくてもできること。

 

なぜ好きなことができないか

時代が負うところの多い「教育の不行き届き」のせいで、チャレンジしたくても閉じ込められている様な気がする。端的に言えば、「選べることを知っている」ことや選択肢に対する知識の差であると思う。

どういうことか。祖母は80代で、中学校までしか出ていないし、若くしてお見合い結婚をした。教育を受ける機会がなかったし、親の言いつけに従って生きるしかなかった。まさに選べることを知らなかったし、今の若い世代ほど知識もなかったのだ。

しかし、知識はいつでも身に着けることができる。知識によって、選択肢を増やすことができる。知識にアクセスできるエリアをもっと広げるために、社会がご老人に対して何かしらの働きかけをできないものだろうか。生涯教育、とよく言われるけれど、実際どの程度浸透しているのだろうか。通信大学ももっと知られて良い気がする。

もっとも、スーパーおばあちゃんみたいに、自分で見つけられる人もいる。

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加齢に対して、必要以上に悲観しない

年齢とともに身体の様々な機能が衰えていくのは自然なことであるし(医療が進んだ数十年後の世界では、機能の衰えは緩やかになっていくだろうけれど)、周りの人が亡くなるのも自然なことだから、それらに対して諦めを感じる必要はないはずだ。もちろんアンチエイジングなどの必要な対策をするのは前向きだと思うしそれは個人の自由であるけれど、ここで言いたいのは、「歳をとるにともなって起こる自然なこと」に対して、必要以上に悲観することはないのではないかということである。

悲観しないで、とにかく好きなことをして欲しい。どんな年齢であれ、好きなことをしている人はたとえ仲間がいなくてもやっていること自体が楽しくて仕方ないから孤独など感じないし、結果的にどこかのタイミングで自然と仲間もできるものだと思う。

 

孫のお手本

おじいちゃんおばあちゃんが全力で好きなことしていたら、本人たちだけでなく周りにもプラスの影響がある。挑戦する人の存在は、見ていて力強く、周りを元気づけるものだ。特に、子供は大人の姿勢を見て育つ。おじいちゃんおばあちゃんは、孫や若者の素晴らしいお手本となるチャンスなのだ。そして、お手本となることで、さらに喜びも増すのではないだろうか。年をとることを卑下しないで、年齢なんて気にしないで、いつでも新たにチャレンジしてほしい、と思う。今のおじいちゃん、おばあちゃんたちの扱われ方を見ると、一人の大人としてよりも、とにかくいなしておけばいい存在として扱われているように感じられるし、本人たちもあまんじてその立場を受け入れているような気がする。しかし、私は、おとなしくしていて欲しくないのだ。祖母からお小遣いをもらうよりも、そのお小遣いで新たに何かに挑戦してイキイキしている祖母を見る方が嬉しい。もちろんお小遣いもとっても嬉しいのですが。笑